性癖博覧会萌茶・作品用

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「おかえりとただいま」 - 真坂

2022/11/13 (Sun) 00:19:38

 疲れた。
 会社を出た瞬間から、立香の頭の中を支配しているのはそればかりだ。
 重たい身体を引きずるような気持ちで動かして、どうにか帰路につく。乗った電車はほぼ満員で、座席どころか吊革にも掴まれなかった。まぁ座席が空いていたとしても、今座ったら立ち上がれなくなりそうな気もしたから、結果的によかったかもしれない。
 同じ理由で、どこかで夕食を済ませるという選択肢もなかった。今の状態だと、子供みたいに食べながら眠ってしまうかもしれない。そこまでならなくても、一回気を抜いてしまえばそこから動くのに物凄く労力を使いそうだ。
 となると、もう一刻も早く自宅に戻るのみである。帰って何か作る気力は全くないけれど、インスタント食品は何かしかあったはずだ。いや、この際食事も入浴も後回してして眠ってしまったって、自宅なら許される。幸い明日はやっと休みだし。
 そう頭の中で自分を鼓舞して、身体に鞭打って立香は必死に歩みを進めた。
 電車を降りて最寄り駅前の景色を目にしたら、少し気が抜けてますます疲れがのしかかってきたが、ここまで来たらあと少し。あと十分……九分……と脳内でカウントをしつつ、棒になっている感覚の足を動かしていけば、やっと到着だ。
「着いた~~……」
 深い溜息と共に呟き、のそのそと取り出した鍵をドアノブに差し込もうと――

 ガチャリ

「え?」
 ――する前にドアノブが回る。
 反射的に顔を上げた立香の目の前で、勝手に扉は開いていき、
「お、やっぱり立香ちゃんだった。おかえり~」
「え……」
 そうして中から現れた恋人の姿に、立香は目をまんまるにして、「ポカンとする」という形容詞を見事に体現してしまった。
「一週間お疲れ様。今惣菜温めてるから……」
「一ちゃん?なんでいるの?」
「はい?」
 へらりといつもの笑みを浮かべ、そんなことを言いながら立香の持つ荷物へと手を伸ばしてくる一に、立香は率直な疑問を投げる。それを聞いた彼は軽く目を見張るが、今の立香は疲れと驚きで、言い方を考慮する余裕はなかった。
 だって一は、立香よりずっとずっと多忙なはず。今の立香のように、同僚が家庭の事情で休んでいるための一時的な忙しさではなく、就いている職や役職故に常に激務に身を置いているのだ。
 だから、確かに合鍵はお互い交換しているけれど、専ら使っているのは立香の方で。
 目を丸くしたままの立香に、一の方も日頃の自分に対する自覚はあったのだろう。少しバツが悪そうな色を滲ませながら頬を掻き、
「いやぁ、珍しく定時で上がれることになってさ。急だったからどうしようかと思ったんだけど、駅でケーキの特設販売してるとこで、前に立香ちゃんが食べたいって言ってたやつ見つけたもんだから」
 「お土産に買って、お邪魔しちゃった」とまたへらりと笑うものだから、立香の胸の内にぐわわーーっ!と言葉にし難い何かが襲い掛かってくるようだった。

 そんなの滅多にないことなんだから、ゆっくり休めばいいのに、休んでほしいのに。
 もしくはせっかくできた時間なんだから、自分の好きなことを――ああ、でも、それが私に会いにきてくれるということなら。

「~~っ、一ちゃん!!」
「っと、はい?どうしたの?」
 その襲い掛かってきた何かに背中を押されるように、立香が一に勢いよく抱き着けば、彼はなんなくそれを受け止めて、優しい目をしてこちらの顔を覗き込んでくるので、今度はきゅぅうんと胸が甘く引き絞られて、
「一ちゃん、なんで私の旦那様じゃないの?」
「……はい?」
 衝動のまま、今度はそんな疑問を本気で投げかけてしまった。
 何度も言うが、今の立香はとても、とても疲れている。
「……立香ちゃんが、僕の奥さんじゃないから、かな?」
「じゃあ奥さんになる」
「うん、うーん……とりあえず詳しい話をするためにも、中に入ろっか?」
「うん……」
 そんな恋人に思わず笑顔のまま固まってしまった一だったが、立香の顔色を見てとって、話を合わせながら彼女の身体を優しく引き寄せる。
 その体温に完全に気が抜けてしまった立香は、子供のような拙さで頷きながら、完全に一へと身体を預けてしまった。

「あ、その前に」
「んー?」
「おかえり、立香ちゃん」
「……ただいま、一ちゃん」

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