性癖博覧会萌茶・作品用

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おかえりとただいま - アナコンダ

2022/11/12 (Sat) 23:57:05

 前が霞む。
 足が痛い。指先の感覚はとうになかった。
 腕は痺れてるし、息を吸うたびに肺が痛くて泣きそうだった。
 よく生きてるな、って、毎回思う。思うけれど思うだけ。もうやめたい、と愚痴るのはもう随分前にやめてしまった。

「はじめ、ちゃ、もうすぐ、だよ」

 ひゅーひゅー、ぜいぜい。わたしの声は掠れていて小さかった。それなのに、わたしが引きずっている人はぴくりと反応する。

「……け」
「きこえ、ない」
「おいてけ」

 彼は短くそれだけ言った。わたしは黙る。肩に抱えた彼は確かにずしりと重く、一歩進むごとにみしみしと体が悲鳴を上げた。
 それでも、歩く。一歩を踏み出し前へと進む。進めばぽたりと血が落ちた。わたしのかはじめちゃんのかもう、わからない。

「置いていか、ない。はじめちゃんと、帰るって、決めたから」
「あんたは、帰らなきゃ」

 彼の腕が動く。動いてゆっくりとわたしの体から離れていった。あ、だめ。だってこんなわたしの支えでも、なくなったら。

 どしゃり、と彼が倒れるのが見えた。なんの躊躇いもなく顔から地面にびしゃりと突っ込むようなどうしようもない倒れ方で、わたしは彼の隣に膝を付く。顔を覗き見れば、うざったらしそうに手を振られた。ひらひらと動く手はいつも通りに見えるのに、反対側の左手が肘から下がばっさりとなくなっているのを、わたしは知っている。

「重くて仕方のない荷物は置いていけ。生き残れ」
「はじめちゃんは、そうしなかったよ」
「違う。違う。俺だってそうした」

 嘘つき。しなかったくせに。しなかったくせにわたしにしろという彼は残酷だ。
 次に口を開けば、きっとおまえは人間だから、とか言うんだろう。だから生きろとか帰れとか置いていけとか、そんなことを言うんだ。

 わたしはくしゃりと顔を歪めながら彼を見る。
 三枚目だとへらへら笑いながら言っていた彼の顔は、今は半分以上血にまみれている。右目は腫れあがり開くこともない。鼻はへしゃげて鼻血がだらだらと流れっぱなしだ。ゆるやかな長髪は乾いて茶色に染まっている。後ろ髪は切られて長さもばらばら。浅葱色の羽織もどこへいったのか、黒い着物は触れればじゅわ、と血の匂いがした。
 左手は欠けており、足もろくに動かない。怪我をしていないところがないような、そんな彼を見る。

「はじめちゃん」

 ねえ、いつもの言ってよ。無敵だって、へらへら笑いながら嘯いてよ。
 わたしの願いは虚しく、遠くから何かの咆哮が聞こえてくる。ごう、と風を切り裂く音も。右手にはからからの令呪の跡しかない。アンプルだって落してしまった。もうわたしにはなにもない。

「立香」

 こんな時だけ名前を呼ぶ彼が呼びかける。わたしはその言葉に首を横に振って見せて、そして彼の髪の毛をむんずと掴んだ。光を失いかけた茶色の瞳は、それでもわたしのことを、相変わらず綺麗に映してくれていた。最後の最後までわたしのことが好きってことで、いい? はじめちゃん。

「りつ――んむ」

 ねえはじめちゃん、知ってた? 今あなたの目の前にいるのは、世界でいっとう諦めの悪い女の子だよ。
 なけなしの魔力をあなたに渡しちゃうくらい、ファーストキスをあげちゃうくらい、なんでもないんだから。

「ん、う」

 重ねた唇、わたしの喉から出た声、そして明け渡される魔力に、はじめちゃんが目を瞠ったのは一瞬だった。すぐに目を少し伏せ、そして自ら手を伸ばしてくる。わたしの後ろ頭をくしゃりと掴み、そのまま強めに唇を押し付けてきた。血とにんげんの味がする唇はすぐに熱くなり、そのままべろり、と彼が舌で舐めてくる。促されるままわたしのそれを差し出せば、くちゅりくちゅりと合わさった。ふたつのまっかなベロが、ぬちゅぬちゅと絡み合って唾液が交換されて、こくりと喉を鳴らす。舌がどろどろになって、もう一度、もう一度、と何度も何度も絡み合った。

「ひ、あ」
「――んっとに、おまえはさぁ」

 口が離れた時、見えたのは血まみれで、でもへらり、と笑ったはじめちゃんだった。くしゃくしゃとわたしの頭を左手で撫で、そして今度はわたしを抱え上げてくれる。

「ここまでしてくれちゃあ、応えないわけにはいかないでしょ。ベタだけどさ」
「王道展開、好きだよ」
「僕も。じゃあ早く帰って、ただいまで締めようか」
「うん、じゃあおかえりを言ってあげるね」

 そう言うわたしたちの胸にはもう不安も焦燥も絶望もなく、ただただまっすぐ帰ることだけしか見えなくなる。
 ベタで王道で、よくある話。でも今、一番欲しい話。

「行くよ、はじめちゃん」
「ああ、マスター」

 ただ普通の言葉を言い合いたいがために、彼は刀を持ち、わたしはそのまま彼の腕の中で息をひゅう、と大きく吸い込んだ。



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